ラテンアメリカ50年、個人的体験と ものづくり(1/5) 大竹茂様

2024年11月の第17回会員大会でご発表いただきました大竹様よりご準備いただいた原稿と写真を頂戴いたしました。5回に分けて公開させていただきます。

 

ラテンアメリカ50年、個人的体験とものづくり(1/5)

はじめに

皆さん こんにちは。

先程は、本日参加された方々のスピーチを拝聴して、皆さんお元気に、前向きに、活動をされておられるご様子に感激致しました。
特に、外国人を相手に教育を行っていたり、自分で会社を創られたり、それもベトナムに設立されたり、さすがにソフィアンだなと、そのバイタリテイに大きな刺激を受けました。

さて、先週は、15-16日、ペルーリマでのAPEC首脳会議、18-19日、ブラジル リオデジャネイロでのG20首脳会議と、ラテンアメリカにスポットの当たった週でした。

本日は、わたくしの約50年に亙るラテンアメリカとの関りと、その中でのものづくりの体験についてお話をさせていただく機会をいただき、誠にありがとうございます。
大学を卒業してからもう50年になるわけですが、現在の6号館は当時学生寮で、増田さん、込山さんとは同期でして、正しく<同じ釜の飯>を食べておりました。私のラテンアメリカとの関りのスタートしたところであるだけでなく、寮の礼拝室で結婚式を挙げたこの場所で、これまでの50年に亙るラテンアメリカとの関りについてお話をさせていただくことに、不思議な縁を感じております。
また、現在教誨師もされておられるハビエル・ガラルダ神父や、イグナチオ教会の高祖神父は当時学生寮の舎監をされておられました。本当に、人の一生はめぐり逢い、一期一会です。大切にしたいと思っています。

さて、私は1975年にポルトガル語学科を卒業後、金融機関(東京銀行:現三菱UFJ銀行)、外務省(在ブラジル日本国大使館経済担当公使)、自動車部品ブラジル現地法人(タカタ、住友理工)を経験し、3年前に現役を引退しました。その期間、アルゼンチン、ペルー、ブラジル、スペイン、最後に再度ブラジルと、ラテンアメリカ諸国での勤務を経験しました。

*スライド資料:ESCADA(2008年に、ポルトガル語学科誌であるESCADAに寄稿し、スペイン語の失敗談について載せてあります。)

 

私はそもそも銀行員出身(29年間)で、ものづくりの専門家ではありませんので、今日のお話は、あくまでも私の個人的な体験、見解に基づくものですので、一ソフィアンのラテンアメリカ体験談としてお聞きいただければ幸いです。
また、私がラテンアメリカと関わってから50年が経っていますので、私の体験した時代と現在では政治状況も経済状況も社会状況も変わっている点も多々あるかと思いますが、そういう時代もあったのだ、そういうことも起こりうるのだと理解していただければ幸いです。

 

第一部:ラテンアメリカ50年、個人的体験

I.<国家テロリズム:アルゼンチン>
軍事独裁政権:恐怖政治(国家テロリズム)とそれに対する市民運動<5月広場の母たち運動>

それでは最初に、個人的体験の初めとしてアルゼンチンで経験した軍事独裁政権=国家テロリズム=恐怖政治についてお話をさせていただきたいと思います。

1979年、27歳の時に、アルゼンチンで初めての海外勤務を経験しました。
2年間の業務研修生ということで、1年間はブエノスアイレス大学でインフレ会計を勉強し、後の1年は銀行の支店で実務を研修するというものでした。

当時、アルゼンチンは3年前に始まった軍事独裁政権時代で、この軍事政権は1976年3月に始まり、1983年10月まで、7年半続きました。(その間、1982年4月から6月にかけてフォークランド戦争があり、アルゼンチンはイギリスに負けています。)

この軍事独裁政権は汚い戦争とも呼ばれ、強制失踪者(違法に逮捕拘留され行方不明にされた者)は男女合わせて3万人(3割は女性)を超えたと言われています。この中には16人の日系人も含まれています。
この軍事独裁政権は<国民再編プロセス>を国策として掲げて、抵抗者を拉致して、秘密拘禁施設に連れていき、拷問し、殺害していたわけです。また、遺体が発見されないような、また、発見されても誰だかわからないような遺棄・処理を行い、そのすべてを隠していました。
当時、私の会社のルールで、家族呼び寄せは本人着任後6か月後ということで、
私は1979年1月、アルゼンチン着任当初は、一般の家庭に下宿していました。
大家さんからどこで誰が聞き耳を立ているかわからないので、政治のことは一切口にするなといわれました。彼の娘の恋人と甥が、朝大学に行ったきり家に戻ってこないとのことでした。(大家さんは、彼らはきっと拉致されたのではないかと思っていたようですが、はっきり口には出しませんでした。というよりも、政府を批判していると思われるようなことは一切言わなかったようです。)

その内、ラプラタ川に青年の死体が浮かんだとか、アンデス山中で青年の死体が発見されたとかのニュースが入ってきました。
1995年にシリンゴ元海軍大尉が告白したところによりますと、強制失踪した人たちを飛行機に乗せて、ラプラタ河の河口や海に落としていたとのことです。

そして、アルゼンチン着任5か月後(1979年5月)、家族を呼び寄せる準備のためにアパートに移りました。ある日、アパートの近くのレストランで食事をしていると、秘密警察と思われる刑事二人が、私のテーブルにやってきて身分証明書を求めました。偶々旅行の帰りでパスポートを持っていたので、それ以上は追及されませんでした。しかしながら、自分のアパートの前には装甲車が置かれ、疑わしき者は拉致されていた時代ですから、もし、その時、何らかの身分証明書を持っていなかったならば、間違いなく、拉致され、そのあとどうなっていたかわかりません。

初めての海外勤務で、将来を目指して意気込んでいた自分には大きなショックでした。本来、国民を守るべき国家(政府)が、反政府の疑いがあるということだけで、国民を秘密裡に、不法に、拉致し、監禁、拷問を行い、最後はわけが分からなくして抹殺してしまうというようなことが行われていたわけです。軍事独裁政権の怖さを体験させられた次第です。

このような、軍事独裁政権下で唯一軍政に対する公共の場での抗議運動が、1977年4月30日(軍政になってから1年後)に始まったとされる市民運動<5月広場の母たちの運動>です。

5月広場とはアルゼンチンの大統領官邸前の広場です。
国家に頼ることができず、法に訴えることもできないという中で、人権侵害は決してうやむやにしてはならず、<私は忘れない、私は許さない、私は和解しない>として、決して諦めることなく、行方不明となった子供たちを求めて母親を中心に市民運動を強化して、失踪の真実と責任を求めてきたわけです。

1983年の民政移管後、失踪者の調査や、軍の責任者に対する裁判も始まるのですが、すぐに、裁判ができなくなってしまう<不処罰(免責)の時代>が始まり、それが終わるのが20年後の2003年の左派政権の誕生と言われています。言い換えると、民政移管後も、20年という長い間、<人権侵害という汚い戦争>の黒幕たちを処罰できなかったのです。

*スライド資料
このあたりの話は、映画オフィシャル・ストリー(Historia Oficial)や、ブエノスアイレスの夜(Vidas Privadas)にも出てきます。

 

今から6年前の2018年10月13日、この上智大学で<アルゼンチン・正義を求める闘いとその記録―性暴力を人道に対する犯罪として裁く>というテーマでシンポジュームが開催されました。
同シンポジュームには、<5月広場の母たち運動>のリーダーの一人であったノラ・コルテイ―ニャス(2024.05.30死亡)さんも参加されています。
*スライド資料
<アルゼンチン 正義を求める闘いとその記録>が2020年7月に発行されています。

 

私は45年前に、ラテンアメリカと初めて現地で接することになりますが、日本から一番遠い国であるアルゼンチンで、軍事独裁政権の恐怖政治を経験し、国は頼れない、法律も頼れないと感じたことは、その後の私のラテンアメリカとの関りの中で、大きなトラウマとなりました。

 

 

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