2024年11月の第17回会員大会でご発表いただきました大竹様よりご準備いただいた原稿と写真を頂戴いたしました。5回に分けて公開させていただきます。
1回目の記事は→こちら
II.<治安問題>
それでは次に治安問題についてお話しさせていただきます。
2年間の予定であったアルゼンチンでの研修は半年で終わり、1979年6月、ペルーに異動しましたが、ペルーでは治安の悪化に悩まされました。個人的にはすり被害にあい、アパートは泥棒に入られました。
外国企業の事務所や銀行が毎日のように山から下りてきたゲリラ(センデロ ルミノソ)の爆弾に襲われる事件が多発し、ついに私の銀行である東京銀行リマ支店は、私が日本に帰国(1981.10)して数年後に、支店長がテロに襲撃され(1987.3.24)重傷を負い、その1年後、支店の閉鎖(1988.6.30)を余儀なくされました(2011.2.25駐在員事務所として再開)。
その後、1991.7.12にはJICAの3人の専門家が殺害されるという事件が起きました。
更に、皆さんも記憶にあられると思いますが、ペルーの日本大使館がゲリラに占拠されたのは1996年です。(1996.12.17—1997.4.22)。
当時は、治安が悪くて仕事どころではなかったわけです。
さて、治安が悪いということではブラジルも同じで、車は防弾車を使用していました。防弾車は防弾ガラスや厚めの鉄板を使用しているために、車は非常に重くて、乗り降り時にドアに挟まれると骨折しそうで大変でした。
また、信号待ちをしている時に襲われることが多いので、たとえ信号が赤でも、車がこなければ止まらないで走ること、また、絶対に窓を開けないようにとの指導を受けていました。更に、誘拐予防に通勤ルート、通勤時間、退社時間もできる限り変えるようにとのことでした。
日本では考えられないことです。
ブラジルでも、先ず治安対策が第一で、仕事はそれからという環境でした。
ラテンアメリカでは、現在でも、犯罪組織や麻薬組織が活発に動いており、市民のみならず政府に対しても犯罪行為を行っていますので、治安問題はますます深刻さを増してきていると思います。また、政治的な不安定は相変わらず存在していて、ブラジルではつい最近、11月19日、ルーラ大統領を就任直前の2022年に暗殺する計画に関与した疑いで、ボルソナロ前政権の高官を含む軍関係者5人が逮捕されたのに続き、11月21日には、ボルソナロ前大統領を含む37人がこの疑惑で起訴されました。
III.ラテンアメリカの抱えるその他の諸問題
このような治安の悪いラテンアメリカで仕事をするということにつきましては、以前、*スライド資料1<異文化摩擦と対応 ブラジルの事例>として、ラテンアメリカ時報 No.1438(2022年春号)に寄稿させていただいております。
ラテンアメリカには現在も、深刻な治安問題の他、マクロ的にはa.貧困問題、b.児童労働問題、c.先住民族問題、d.財政赤字問題、e.政治問題、f.気候変動問題、g.難民や移民問題等の様々な問題があります。
これらの問題の中には、日本にも当てはまりそうなものもありますが(財政赤字問題、気候変動問題、難民問題等)、ラテンアメリカの場合、その度合いが非常に大きいことです。
従って、これらの問題は一朝一夕に解決できるものではありませんが、もう少し私の体験を交えて具体的にお話をさせていただきたいと思います。
IV.ラテンアメリカ経済の特質 (財政赤字、経常収支赤字、インフレ)
ビジネスに直結する問題として経済問題がありますが、ラテンアメリカ経済の特質として、財政赤字、経常収支赤字、その結果としてのインフレ、通貨安、デノミ 累積債務、等の問題が挙られます。
これら、財政赤字と経常収支赤字を主因として、ハイパーインフレを引き起こすことになるわけですが、因みに、
ペルーでは1990年に年間7,650%,
アルゼンチンでは1989年に4,924%,
ブラジルでは1993年に2,477%
のハイパーインフレーションを経験しています。
このようなハイパーインフレの中では、国民の自国通貨に対する信頼は低く、貯蓄意欲もわかず、ブラジル人の友人は、不動産、外国での預金等でインフレヘッジをしていると言っていました。
目減りしてしまうブラジル通貨ではなく、不動産や外国通貨で資産の目減りを防いでいるわけです。
即ち、ハイパーインフレの中では、金持ちはますます金持ちに、貧乏人はますます貧乏になり、所得格差や治安の悪化を引き起こす要因にもなります。
また、ウルグアイにはタカタがエアバッグの工場をもっていたのですが、ブラジルの銀行が支店を設けて、アルゼンチン人の預金を扱っていました。アルゼンチン人も、しょっちゅう預金凍結や通貨の切り下げを行うアルゼンチン政府を信用していないのでしょうね。
(因みに、アルゼンチンからウルグアイには車でも行けます。)
また、ブラジルでは、日本企業の多くは不動産でインフレヘッジを行っていて、自社ビルや農場を購入しているところもありました。
また、ハイパーインフレになると通貨の信頼も下落して、コインが道に落ちていても誰も(乞食でさえ)拾おうとしませんでした。
ハイパーインフレの中の経済は複利の世界です。即ち、月利ベースで、毎月のインフレ率で元本を修正して、修正された元本に利息がかかりますので、高額になります。債権者は儲かりますが、債務者の負担は高額なものになります。
ブラジルに赴任する際、日本から単利機能のシャープのミニ計算機をお土産にいくつか買って持って行ったのですが、複利機能が無かったために役に立ちませんでした。彼らは、既に複利機能のついているHP(ヒューレッドパッカード)の計算機を使用していました。
更に、当時、ブラジルの私の銀行では、一般個人顧客向けのオーバーナイト取引も行っていました。
Overnight取引は通常金融機関同士で行うものですが、ハイパーインフレの時代でしたので、個人にも適用したものです。これは日歩で利息をつけるもので、昔学校で習った日歩、月利が実際の仕事で使われていたわけです。これも、インフレの中で生きていく術でした。
笑い話になりますが、銀行時代(1984.5—1989.4),支店長会議で月次決算の数字があわず、大騒ぎになり、原因を探すことになったのですが、なかなかわからず、結局、インフレでコンピューターにセットされた金額の上限が超えたため、数字の頭がカットされたことが原因と分かりました。
また、ブラジルではこれまで9回通貨の切り下げがが行われています(デノミネーション)。
現在のレアルは1994.7.1から使用されていて、30年変わっていないことになります。私のブラジル滞在中に行われたデノミ(1986.2.28)では、それまでの1,000クルゼイロが1クルザドに切り下げられたわけですが、新紙幣の発行が間に合わず、旧紙幣に新紙幣の名称がハンコで押されていました。
*スライド資料2-旧紙幣にハンコが押された紙幣
そのような経済が混乱している時、ある日貸出先であるM州政府の財務局長から呼び出しがあり彼の事務所に行きました。彼は、おもむろに彼の席の後ろにある金庫を開けて次のように言いました。金庫は空っぽでした。
<大竹、俺は借りたものは返したいと思う。でも、ないものは返せない。この理屈はおまえにもわかるよな?>
私は、納得できないので、是非返してほしいと言って帰ってきました。
ところが、その数日後、法律がでて、貸出金の半分はカットされ、残る半分についてはハイパーインフレ(1988年630%,1989年1,400%)の時代にもかかわらず、年利数%の金利というめちゃくちゃな条件でした。銀行は大損でした。
ここでも、国家(この場合は州政府)の横暴と、信用できないことを思い知らされたわけです。
(因みに、1985年3月に政権に着いたサルネイ大統領は、債務問題は経済・金融問題ではなく政治問題であるとし、国民の飢えで債務を支払うようなことはしないと言明し、1989年2月に外債の金利支払いを停止するモラトリアムを発しました。その他の政治家、法律家、エコノミストも、ブラジルは高金利を支払ってきたので、実質的に元本は支払い済みであり、経済的に返済能力のないブラジルに貸し付けを行ったのは、それを承知し、もしくは見過ごした貸出銀行の落ち度にあり、ブラジルに責任はないなどの言い訳をしました。
そして、1992年7月のリスケ協定は元本の35%カット、残額を期間30年の証券に切り替える方法を中心に、数種類のオプションを組み合わせる内容となりました。)
V.在ブラジル日本国大使館での体験
大使館では、2004.8-2007.7の期間、経済担当公使として色々な仕事をさせていただきましたが、その中でも、経済協力の一環として実施した、先住民(インデイオ)部落への学校寄贈とブラジルが実施したデジタルテレビの国際入札競争についてお話をさせていただきたいと思います。
V-1:経済協力:先住民部落への学校寄贈
日本は、当時、年間10百万円の無償経済協力を行っておりました。その一環として、先住民部落へ学校を寄贈しました。
場所はアマゾンの奥地で、当時インデイオのリーダーであったハニオ酋長の出身地でした。
学校は立派なもので、トイレは水洗式でしたが、先住民はそのようなトイレを使ったことが無く、宝の持ち腐れでした。また、パソコンも設置したのですが、使える人は誰もいませんでした。教室は立派にできていて、先生がポルトガル語で授業を行っていたのですが、机は部族ごとに3列になっていて、各列に5人ほどの生徒が座っていました。先生がポルトガル語で話したのを、各列の通訳が、各部族の言葉に通訳しなおして授業を行っていました。その教室は、先生一人に、各部族の通訳が3人いて授業を行っていたわけです。先住民の教育は簡単でないことを知らされました。
経済協力は箱モノで行ったわけですが、果たして十分役に立ったのかどうか、他に、先住民が必要としている協力は無かったのかどうか、今では確かめるすべがありません。
当時も、先住民が一番困っていたのは、自分達の生活居住地域が不法に占拠され、大豆などの大農場が作られたり、農薬の大量消費により、川が汚染され、今まで飲んでいた川の水が飲めなくなるなどの被害が深刻でした。
えてすると、経済協力は協力する方の自己満足に陥ることにもなりかねず、援助を受ける方が実際に何を欲しているのかを謙虚に検討すべきものかと思いました。
V-2:デジタルテレビの国際入札競争
次に、デジタルテレビの国際入札についてお話しさせていただきます。
2006年、ブラジル政府はデジタルテレビの国際入札を行いました。
当初、アメリカ(ATSC)、欧州チーム(DVB-T)、日本(ISDB-T)の3チームでで競争していました
が、アメリカは早々と撤退して、最後は欧州チームと日本の競争となりました。
欧州チームのやり方は強硬且つ、ドロドロとしたもので、耳を疑うような条件(ブラジル政府関係者の子弟の欧州留学援助)を出してきました。ブラジル側の窓口から内々に私に日本側として対応できるかどうか打診してきました。私からは、残念ながらそのような援助はできない旨、先方の面子をつぶさないように慎重に回答させていただきました。ブラジルは欧州の旧植民地、且つ欧米文化に染まっている所で、人脈が強く影響するところですが、後々汚職問題として訴えられるリスクもあり、断っておいて良かったと思っています。
日本側としては、欧州チームのやり方に翻弄されましたが、最終的に、ブラジル政府は、2006年6月29日、日本方式(ISDB-T)を基礎とするブラジルデジタルテレビシステム(SBTVD)の地上デジタル放送方式を採用することになりました。
日本以外の国・地域で、ISDB-T方式による放送規格が採用されるのはブラジルが初めてで、画期的な案件となりました。
そして、その1年半後の2007年12月にはサンパウロで地上デジタル放送が開始されました。
<本件につきましては、2007年に、CNI(ブラジル全国工業連盟の依頼により、*スライド資料3(Um novo marco nas relações bilaterais entre o Brasil e o Japão=日伯二国間関係の新たな記念碑)として寄稿しました。
この国際入札の中で体験した主な点は以下の通りです。
- この種仕事は一人でできるものではないこと:
官民連携の重要さ。
- 競争相手のやり方に惑わされず、ダメなものはダメの考えは維持すること。(コンプライアンス)
- ブラジルも高い通信技術力を持っていること。
当初、ブラジルにデジタルテレビを推進していく能力があるのか疑う向きもありましたが、日本方式を採用後1年半で実際にデジタル放送を開始するなど、高い技術力を持っていることが証明されました。
また、ブラジルの技術力という意味では、ブラジリアにあるブラジル有数のIT企業(POLITEC社)を訪問する機会があったのですが、玄関に顔認証用のボックスがあり、日本の企業名(PANASONIC)がありました。後で、当社の社長に確認したところ、箱物は日本からの輸入だけれども、中のソフト部分は自社製品とのことでした。更に、既にスペインの貯蓄銀行であるCAJAやアメリカのCIAやPENTAGONにもITソフトを納めているとのことでした。
*補足:ABRÃO BATSITA氏の知遇
ABRÃO BATISTA氏はブラジルの有名なコルデル作家のひとりです。コルデルは大衆文学の一つで、小冊子の形で印刷され、その文章はしばしば韻を踏んで書かれます。幻想的物語から政治問題まで、扱うテーマは多岐にわたります。特にブラジルの東北部で見られます。
偶々、ブラジリアの文化週間で知り合いになり、個人的に他のコルデリスタと一緒に日本食のレストランに招待したところ、非常に感激して、後日、<EM UM JANTAR JAPONÊS日本食に招待されて>と題するコルデルを私の為につくってくれました。ブラジル人の人情味厚い一つの例として紹介させていただきます。
*スライド資料4:コルデルーEM UM JANTAR JAPONES